さて、今夜は長崎の話を一つ。
野母町というところがありましてね。長崎市の南の端っこ、半島の先の方です。そこに権現山展望公園という場所がある、と聞いたことのある方もいらっしゃるかもしれません。晴れた日には軍艦島が見えて、海の色が刷毛で塗ったみたいに青い、そういう景色のいい場所だそうで。
その公園の一角に、「まごころの鐘」というものが建っているんです。世界平和への願いを込めて設置された鐘だということで、まあ、訪れた人が鳴らしていく、そういう場所らしいですね。
これはある男の人から聞いた話です。名前は出せませんが、長崎に住んでいる方で、三十代の前半。まあ、確かめようのない話ではありますが、聞いてください。
数年前の秋のことだそうで。その男の人が友人と二人、夕方の遅い時間にその公園に行ったと。観光でも何でもなく、ただの気まぐれで、車で立ち寄っただけだったそうです。時間にして午後七時か八時か、もうすっかり暗くなっていて、ほかに人の姿はなかった。遠くに街の灯りが見えるだけで、海風だけがずっと吹いていたと言っていました。
鐘を見つけたのは友人の方だったそうで。「鳴らしてみようや」と言い出した。ただ、鐘のそばに何か注意書きのようなものがあったらしくて、暗くてよく読めなかった。男の人は「やめとこうかな」と思ったそうなんですが、友人がもう縄を引いてしまった。
一回。
二回。
低くて重い音が夜の海に向かって広がっていって、消えた。
そこで男の人が「もうええやろ」と言ったそうなんですが、友人は笑いながらもう一度引いた。
三回目の音が鳴り終わったあとのことです。
鐘の音がすっと消えて、あたりがしんとした。そのときに、男の人は気づいたと言っています。
さっきまで聞こえていた海風の音が、完全に止んでいた。
葉っぱも揺れていない。潮の音もない。何も聞こえない。耳が詰まったみたいな、あの感覚だったそうです。
それで二人が黙って立っていると、鐘の下のあたり、ちょうど足元の石畳のあたりから、子どもの足音がしたと言うんです。
とて、とて、とて。
小さな子どもが、駆け寄ってくるような音。でも何も見えない。真っ暗な公園に、二人しかいないはずなのに。
友人は笑いを引きつらせながら「猫やろ」と言ったそうなんですが、男の人にはそう聞こえなかった。もっとはっきりした、ぺたぺたとした、裸足で石の上を走るような音だったと。
そのうちに音は鐘のすぐそばまで来て、止まった。
二人は目を合わせて、何も言わずに車に戻ったそうです。
それだけなんですよ、それだけなんですが。
男の人が言うには、車に乗り込んだとき、助手席のシートに、濡れた小さな足跡がついていたと。
窓は閉めていたはずなのに、と。