ねえ、聞いてくれる?
東広島の、山の奥のほうに、「どんどん淵峡」って場所があるんだけど……知ってる?観光地として紹介されてるし、河童のオブジェとか置いてあって、わりと可愛らしい場所に見えるんだけど。でもね、その場所について、ちょっと変な話を聞いてしまって。
ある人が、夏の終わりごろに、そこを訪ねたんだって。夕方の遅い時間に着いたらしくて、観光客はもう誰もいなかったって言ってた。山の中の渓谷だから、木が深くて、空はまだ少し明るいのに、足元はもう薄暗くなってたって。
その人は、石畳の小道を歩いて淵のそばまで降りていったんだって。水の音がずっとしてたって言ってた。「どんどん」って、低くて重い水音。まあ、滝のある渓谷だからそりゃそうなんだけど……その人は、なんか変な感じがしたって。音が、水の音だけじゃないような気がしたって。
木の葉が揺れているのとは違う、なんか……間のある音、って言ってた。一定じゃなくて、ちょっと間が空いて、またどんって来る。水の音に混じってるから、最初は気のせいかと思ったらしいんだけど。
淵の縁に立って下を見たとき、水が深い緑色をしてて、底が全然見えなかったって言ってた。透き通ってるのに見えない、って。不思議でしょ。水が澄んでるはずなのに、あの緑が途中からすっと消えて、ただの暗さになるんだって。
その人がしばらく水を眺めてたら……ふと、足首のあたりに、濡れた感触があったんだって。
雨は降ってなかった。飛沫が来るほど滝に近くもなかった。でも確かに、冷たくて、ぬるっとした何かが、素肌に触れた感じがした、って。
振り向いたら、誰もいなかった。
足元を見たら、靴の横の石畳に、ぼんやりと濡れた跡がついてたんだって。足の形に、見えなくもないような……でも指が、多かったって。
その人はすぐに引き返して、もう振り返らなかったって言ってた。山を出るまで、ずっとあの音が背中に聞こえてたって。どん、どん、どん、って。
……知ってる?あの場所の名前の由来、って言われてるのが。戦国の時代に、近くの城が落とされて、城主がそこで命を絶ったとき、誰も降ろさなかった太鼓が、櫓から転げ落ちて滝に打たれて、「どんどん」って鳴り続けたって話なんだって。
誰が鳴らしてたわけでもなく、ただ打たれるままに鳴ってたって。
今でも淵の周りには河童の石像がいくつも置いてあって、近くに「安宿河童神社」って小さな祠まであるらしいんだけど……河童伝説って、いつごろから始まったんだろうね。その太鼓の音を最初に聞いた人は、何を見たんだろう。
その人が感じた、足首の、冷たくてぬるっとした感触。
あれが何だったのか、確かめに戻ったって話は、聞かないんだけど。