これはですね、もう十年以上は前の話になるそうなんですが……確かめようのないことなので、あくまで聞いた話として受け取っていただければと思います。
修学旅行で京都に来ていた中学生の女の子がいたんだそうです。どこの学校かはわからない。名前もわからない。ただ、秋口の、まだ日が短くなりかけた頃で、班行動の時間だったと。
建仁寺の山門を抜けて、花見小路のあたりを五、六人で歩いていたらしいんですね。観光客がちらほらいて、石畳が続いて、格子戸の並ぶ、いかにも京都らしいあの通りです。まだ夕方前の、明るい時間帯だったそうで。
そのうちの一人の女の子が、ふと脇の路地に目をやったんですって。
古い建物の引き戸が、ガラガラと音を立てて開いたんだそうです。誰かが開けたのか、風が開けたのか、そこはわからない。ただ、開いた先の薄暗い土間に、信楽焼のたぬきが一体、置いてあったと言います。大きさは……子どもの腰くらいはあったんじゃないかと。丸い目で、正面を向いて、ただ立っていた。
女の子は班のみんなに声をかけたそうです。「ねえ、たぬきがいるよ」って。
みんな足を止めて、しばらく眺めていたらしいんですけど、まあすぐ飽きますよね、中学生ですから。さあ行こうか、という空気になって、女の子が歩き出そうとした瞬間のことです。
班のみんなが……動いたんだそうです。
ただし、進行方向とは逆に。
声もなく、表情もなく、まるで何かに糸を引かれるみたいに、揃って路地の方へ入っていったと。肩を並べて、同じ歩幅で、石畳の上をすっすっと歩いていった。
「どうしたの」と声をかけても返事がない。名前を呼んでも振り向かない。女の子は慌てて追いかけようとしたんですが……そこで、何かが止めたんだそうです。何が止めたのかはわからない。ただ、一歩踏み出したところで急に、たぬきのことが憎くて仕方なくなったと言うんです。
憎い、という言葉が妙なんですが、本人はそう表現したらしくて。怖いでも気持ち悪いでもなく、あのたぬきが憎たらしい、と。
それで、踵を返して、その場から離れたと。
……次に気づいたとき、彼女は渡月橋の上にいたそうです。
嵐山の渡月橋です。祇園から直線でも四キロ以上はある。バスに乗った記憶もない、歩いた記憶もない、誰かと話した記憶もない。日はとっぷり暮れていて、橋の欄干に手をかけて、ただ川の方を見ていたと言います。大堰川の、あの黒い流れを。
気づいたとき、靴の中に砂が入っていたそうです。どこで拾った砂なのか、それもわからない。
警察に保護されて、翌朝になってようやく話せるようになった彼女は、花見小路のことを語ったんですが……班のみんなはどうだったかと言うと、全員、ホテルに戻っていたんだそうです。揃って。何事もなかったように。ただし、その路地に入ったことは、誰も覚えていなかったと。たぬきを撫でたことも、覚えていなかった。
ひとつだけ、あとから判ったことがあって。
たぬきが置いてあったという建物、どうも翌日に確認しに行ったら、その路地自体が見つからなかったと聞きました。花見小路の界隈を地元の人と一緒に探したんですが、引き戸も土間も、どこにも見当たらなかったって。
ただ、石畳の上に、素足の子どもの足跡みたいな跡が、土間の方に向かって五、六人分、並んでいたそうで。
それが、建仁寺の方へ続いていたと……そう聞いております。