……少し、聞いていただけますか。
和歌山の、山のほうに入ったところに、大池遊園という駅があるのだそうでございます。確かなことは申し上げられませんが、あの場所には……何か、普通の駅とは少し違うものが漂っていると、そういう話が伝わっておりまして。
民家はほとんどない。大きな池のある公園があるだけの、人の気配がひどく薄い土地だと聞いております。昼間でも静かすぎるくらいなのに、夜ともなれば、ホームに残るのは虫の声と、池から上がってくる水の匂いだけなのだそうでございます。池の匂い……腐りかけた草の、泥の底から染み出してくるような、あの重たくて湿った空気。口の中に入ってくるような、あの感じ。
ある秋のことだと聞きました。数年前、と言っておられた方がいらっしゃいまして。
その方は一人で、終電を乗り過ごしてしまったのだと。次の電車まで三十分ほど待たなければならなくて、仕方なく、ホームのベンチに腰を下ろしていたそうでございます。夜の十一時を少し過ぎた頃のことだと。
最初は何でもなかった、と言っておりました。スマートフォンを見て、少し目を閉じて、ただぼんやりとしていた。秋の虫が鳴いていて、遠くで池の水がかすかに揺れる音がして、それだけの夜だったのだと。
ところが、うとうとしかけた頃のことだそうでございます。
なんとなく、目を開けた。
線路の上が、明るかった、と。
街灯ではない。虫でもない。青白くて、丸くて、人の頭ほどの大きさの光が、ゆっくりと、ゆっくりと、線路の枕木の上を漂っていたのだそうでございます。地面から一メートルほどのところを、重さなど持たないもののように、ふわ、ふわ、と。
その方は最初、列車の接近を知らせる何かだろうと思ったと言っておりました。でも、電車の来る気配はない。アナウンスも鳴らない。風もない。ただその光だけが、ホームの端のほうから、じわじわと、じわじわと、近づいてくる。
怖い、とは思ったのだけれど、足が動かなかった、と。
膝に両手を置いたまま、ただ見ていた、と。
光が近づくにつれて、その方は気がついたそうでございます。光の芯のところに……何か、黒いものが揺れている、と。人の形をした影のようなものが、その光の中心に薄く滲んでいたのだと。ぼんやりとした輪郭で、でも確かに、人の形で、揺れていた。
その時、池のほうから風が吹いてきたそうでございます。腐った草の匂い。口の中に泥の味がした、と、その方はそう言っておられました。
それと一緒に、音が聞こえた。
……テケテケ、テケテケ、と。
乾いた硬いものが、素早く地面を叩く音。爪のような、骨のような、何かが地を這い進む音。線路の石と石の間を、ひっかくように、ひっかくように。音のたびに、石が小さく鳴った、と。
その方は、それが何かを見てしまったそうでございます。
光の手前、ホームの端の暗がりの中から、上半身だけのものが、縁に腕をかけて這い上がってくるのを。腰から下はない。ただ両腕だけで、あの狭いホームの端を、ひどく速い速度で這い進んでいた。
顔は……見えなかった、と言っておりました。
見えなかったのか、見たくなかったのか、それはわからない。ただ、長い髪だけが垂れていて……その先が、枕木と枕木の間の石に、引きずられていた、と。
髪が石の間に落ちるたびに、かさ、かさ、と鳴っていたのだそうでございます。それだけが、ひどくはっきりと聞こえた、と。
その方はベンチから転がり落ちるように立ち上がって、改札の外まで走った。そのまま夜明けまで、駅の外の道路脇にしゃがんで過ごしたのだと。電車が来ても、乗れなかった、と。
夜明けが来た時、池のほうを見たら、水面に朝霧が立っていたのだそうでございます。白くて、静かで、まるで何もなかったかのように。それがかえって、気持ち悪かった、と言っておられました。
後になって、あの池の周辺で昔、何かあったのだという話を耳にしたとも言っておりました。ただ、何があったのかは、誰もはっきりとは教えてくれなかった、と。聞こうとすると、みな少し黙って、それから話を変えるのだそうでございます。
……それが確かかどうかは、私にも申し上げられません。
ただ、あの夜から、その方はしばらく、毎晩同じ夢を見たと言っておりました。
黒い水の底に、誰かが立っている夢を。
顔は上を向いている。こちらを見上げている。
水の中だというのに、髪が揺れていない。
ただ、じっと、動かずに、こちらを見ている。
……その夢が、いつ頃から見なくなったかは、聞けなかったのでございます。