ねえ、聞いてくれる?
井の頭公園のこと、ちょっと気になる話があってね。確かめたわけじゃないんだけど……どうしても誰かに話しておきたくて。
去年の秋だったかな、って聞いたのよ。友達の友達の話なんだけど。二十代のカップルで、付き合って半年くらいの、まだ仲のよかった二人がね、休日の昼間にスワンボートに乗ったんだって。井の頭の池で。あのピンクとか白の、ぷかぷか浮かんでるやつ。
最初は笑ってたらしいの。ペダルがうまく漕げなくて、くるくる回っちゃって、二人で声を上げて笑いながら。秋の昼間だから空気は澄んでて、水面がきらきらして、ほんとに楽しかったみたいでね。
でもね、池の真ん中あたりに差し掛かったとき。
急に、水の匂いが変わったんだって。
川の匂いっていうか……泥の奥から来るような、冷たくて暗い匂い。腐ってるとも違う、でも生きてるとも違う、なんとも言えない、地面の底みたいな匂いが、すうっと鼻に入ってきたって。彼女のほうがそれに気づいて、「なんか変な匂いしない?」って彼氏に言ったら、彼氏もぞっとした顔で頷いたって。
そのとき、水面に何かが映ったのよ。
二人の影……じゃなくて。
三つ、あったって。
ボートのすぐ横、水の中に。二人の影のあいだに、もう一本、すっと細い影が伸びていたって。彼女がそれを見て、「あれ、なに」って指さしたら、そのとき初めて、空気がひゅっと冷たくなって。真昼間なのに。十月の、晴れた昼間なのに、手の甲の毛が全部立ったって言ってた。
影は動かなかったんだって。ボートはゆっくり進んでるのに、その影だけ、ずっとそこにいた。
彼氏が急いでペダルを漕いで、岸まで戻ったって。二人とも笑えなくなってて、ボートを降りてからも、なんか話すことがなくて。なんか、ぎこちなくて。「疲れたね」って彼女が言っても、彼氏は「うん」って一言しか返さなくて。帰りの電車もずっと無言で。
その後、二人はひと月もしないうちに別れたって。
大きな喧嘩とかじゃなくて、なんとなく、ふわっと。「気持ちが冷めた」って彼氏が言ったらしいんだけど、彼女は今でも、あの水の中の影のことが頭から離れないって言ってるって。
ねえ、弁財天さまって、あの池のほとりにいるじゃない。美しい神様で、芸術の神様で。でもね、嫉妬深い神様だっていう話も、古くからあるのよ。笑い合う男女のそばに、すうっと近寄ってきて……。
確かめようのないことだから、本当かどうかはわからないんだけどね。
ただ、気になるのはね。
あの影、三つあったって言ったでしょう。
二人の影と、もう一つ。
その三つ目の影、ね……細くて、長くて、髪みたいなものが揺れてたって、彼女、最後にぽつっと言ったんだって。
水の中で、こっちを見上げるみたいに。
…………
まあ、噂話だから。信じるかどうかは、あなた次第よ。
でも、もし誰かと一緒にあの池に行くことがあったら……水面は、あんまり、覗き込まないほうがいいかもしれないわね。