……これは、少し前に耳にした話でございます。確かめたわけではございませんし、誰から聞いたのかも、今となっては霞のように曖昧で……ただ、こうして語らずにはいられない、そういうお話でございます。
仙台の、水の森公園に、公衆トイレがあるのはご存知でしょうか。
木々の多い静かな公園で、昼間は親御さんが子を連れて散歩するような、穏やかな場所だとか。ただ、夜になるとひとけが絶えて、街灯の光も届きにくい場所があるそうでございます。そのトイレも、そういう一角に建っているのだと聞きました。
ある夜遅く、近くに住む若い男性が、終電を逃して歩いて帰る途中に、その公園を通り抜けたそうでございます。近道になるからというだけで、特別な理由はなかったと。秋口のことで、風が少しあって、落ち葉が足元でこすれる音だけが聞こえていたと、その方は言っていたそうです。
用を足そうと、そのトイレに立ち寄りました。
扉を開けた瞬間、まず気がついたのは——冷たさ、だったそうです。外よりもずっと冷えていた、と。秋の夜風よりもさらに底冷えのする空気が、顔に当たったのだと。換気が悪いのかと思ったが、窓はあいていたそうで……それでいて、妙に空気が動かなかったと。
そして、においがした。
水気を含んだ土の匂い、雨上がりの川べりのような、湿った重たいにおいが、コンクリートの壁からじわりと染み出るように漂っていたのだと、その方は話していたそうでございます。トイレの匂いではなかった、と。もっと古いもの、地面の奥から来るような匂いだったと。
壁は黒かった、と言います。
塗ったような黒ではなく、染みついたような、時間をかけて積もった黒さだったと。そして——手形がございました。無数に。
最初は目が慣れていなくて、気づかなかったそうです。でも蛍光灯の光の下で、だんだんと見えてきた。一つ、また一つ、と浮かび上がってくるように。大人の手形もあれば、小さな手形もあった。子供のものか、あるいは……指が短すぎて、どちらとも言いにくいものも混じっていたと。壁の下のほうから天井近くまで、びっしりと、重なり合うように押し付けられた跡が、薄白く浮いていたそうでございます。
その方は、笑おうとしたそうです。いたずらだ、落書きか何かだ、と自分に言い聞かせながら。
でも、笑えなかった。
理由は……手形の向きでございます。
壁の外側に向けて、内側から押し付けたような向きではなく、壁の中から、こちら側へ押し出すように——掌を向けて、指を広げて——そういう形だったと、その方は言っていたそうでございます。まるで、向こう側から何かが、壁を押し破ろうとしているような。
そのとき、背後で、扉が軋んだそうでございます。
風ではなかった、と。風が吹いていなかった、とその方は繰り返していたと聞きました。
振り向く前に、走り出したそうでございます。振り向かなかったことが正しかったのかどうかは、わかりません。ただ、翌朝になっても、自分の両手が壁に触れていないかどうか、何度も確かめずにはいられなかったと——そう言っていたそうでございます。
地元の方の中には、あの公園には夜は近づかないほうがよいと言う方もいると聞きます。理由は語らず、ただそれだけを言うのだとか。
……壁の中から、何かが出ようとしているのか。それとも、中に入れてほしいと、誰かが押しているのか。
今もあの手形が、そこにあるのかどうかは、わたくしには存じません。
ただ、確かめに行く気には……なれないのでございます。