これはね、聞いた話なんですが。
どこまで本当かはわかりません。ただ、話してくれた人の顔が、妙に青かったもので。
京都の、八坂神社です。
夜中に行ったことがある方は、わかるかもしれませんけれど。あそこは昼間と、まるで別の場所になるんですね。観光客がいなくなって、提灯の灯りだけが残ると、空気の重さが変わるというか……ぺたりと、肌に貼りついてくるような感じがある、と。
その夜、祐介さんという方が、ひとりで訪ねていたそうです。
年は二十代の後半、友人から「八坂の夜は面白いぞ」と言われて、なんとなく足が向いたらしい。特に怖いものが好きというわけでもない、ごく普通の方だったと聞いています。
時刻は夜の十一時を過ぎた頃。参道はほとんど人気がなくて、石畳を踏む自分の足音だけがやけに大きく聞こえた、と言っていたそうです。
本殿の横を抜けて、少し奥に入ったあたり。境内の端に、昼間は気にも留めないような小さな森があるんですね。木が密になっていて、外の灯りがほとんど届かない。祐介さんはそこへ、引き寄せられるように入っていったんだそうです。「自分から入ったのか、気がついたら入っていたのか、今でもよくわからない」と、後から言っていたらしい。
森の中は、暗いというより、暗さが固まっているような感じだったと言います。
目が慣れてくると、足元の落ち葉の輪郭がうっすら見えてくる。ところが、その葉を踏んでも、音がしないんです。
あれ、と思って、わざと強く踏んでみた。それでも、音がしない。
自分の足音が、消えていた。
その瞬間から、祐介さんは急に汗をかき始めたそうです。十一月の夜で、息が白くなるくらい冷えていたのに、首の後ろから汗が流れてきた。
どこかで、水が滴る音がしていたと言います。
ぽた、ぽた、と。一定のリズムで。でも、どこから聞こえるのかわからない。
足を止めて、音の方向を探そうとしたとき、ふと地面に目が落ちた。
木の根元の土の上に、何かが浮かんでいた。
月明かりなのか、何の光なのかもわからない。薄い、青みがかった光で、線が描かれていたんです。まるで、誰かがそこに文字を書いたみたいに。でも文字じゃない。記号でもない。見たことのない形で、それがゆっくりと、動いていた。
祐介さんは、そこで初めて声を出そうとしたそうです。
出なかった。
口は開くのに、空気だけが漏れて、声にならない。
視線を上げた瞬間、木と木の間に、人が立っているのが見えた。
女の人でした。
着物を着ていて、俯いていて、髪が長かった。距離は、三メートルもなかったと思う、と言っていたそうです。
おかしかったのはね、その人の足元なんです。
落ち葉の上に立っているのに、葉が、沈んでいた。体重がかかっているはずの部分の葉が、まるで重いものを長い時間押しつけられたみたいに、深く、深く、地面にめり込んでいた。
それを見た瞬間、祐介さんの頭に浮かんだのは、「ずっとここに立っている」という言葉だったそうです。
今夜だけじゃなく、ずっと。
どのくらい経ったかわからない。気がついたら、祐介さんは本殿の前の石畳の上にいたそうです。夜明け前で、空が少しだけ白んでいた。
靴の底が、濡れていた。
森には雨が降っていないのに、靴下まで、びしょびしょだったと言います。
それが何の濡れ方なのかは、誰も聞かなかったし、祐介さんも、言わなかったそうです。
ただ一つだけ、後日談があって。
その数日後、祐介さんが友人に「あの夜の写真はあるか」と訊ねたらしいんですね。スマートフォンで撮ったはずだから、と。
開いてみると、確かに森の中で撮った写真が残っていた。
暗くて、ほとんど何も写っていない。
ただ、一枚だけ。
木の根元に、誰かの足が写っていたそうです。
祐介さんの足じゃない。
裸足で、爪が、長かった。