ねえ、聞いてる? いまね、少し囁くように話したいことがあるの。
井の頭公園のスワンボートの話、知ってる? 東京に住んでれば一度は耳にしたことがあるかもしれない。カップルで乗ると別れる、って。都市伝説みたいに言われてるやつ。でもね、これ、ただの「聞いたことある」で済ませていい話じゃないかもしれないって、最近ちょっと思うようになったの。
友人の友人から聞いた話なんだけど、確かめようがないから、そのまま流してもらっていい。
去年の秋のことだったって。付き合って二年になるカップルが、吉祥寺に遊びに来たついでに井の頭公園に寄ったんだって。あの池のほとり、紅葉がきれいな時期でしょう。ボート乗り場の前を通ったとき、彼女のほうが「乗ってみようよ」って言ったらしくて。彼のほうは「別れるジンクスあるじゃん」って笑いながら断ろうとしたんだけど、彼女が「そんなの迷信でしょ、怖いの?」って軽くからかったから、じゃあ乗るか、って。二人ともくすくす笑いながらボートに乗り込んだっていう。
水面に映る木々の色がきれいで、彼女が写真をたくさん撮ってたって。ボートを漕ぎながら笑い合って、弁財天のお社の前を通り過ぎたところで、彼女がふと漕ぐ手を止めたらしいの。
「ねえ、なんか、水が冷たくない?」
十月の終わりだから水が冷たくて当然なんだけど、でもそのとき彼女が感じたのは、そういう季節の寒さとは少し違ったって。手が触れてるわけでもないのに、指先からじわっと冷えが這い上がってくる感じ、って後で言ってたらしい。水面のすぐ下から来るみたいな、そういう冷たさ。
そのとき彼が気がついたんだって。
弁財天のお社の方向を見ていた彼女の目が、どこか遠くを映してるみたいだったって。呼んでも反応が一拍遅れて、笑い返してくれるんだけど、なんか、笑い方が合ってない感じがしたって。そこにいるのに、いないみたいな。うまく言えないけど、そんな感じがしたって彼は言ってたらしい。
ボートを返して、二人でベンチに座ってコーヒーを飲んで、その日は普通に帰ったって。特に何かあったわけじゃない。ただ、帰り道に彼女が一度だけ振り返って、池のほうをじっと見てたって。何見てるの、って聞いたら、「なんでもない」って。でもその目が、笑ってなかったって。
それから三週間くらいで、二人は別れたらしい。理由は些細な言い合いで、でも彼は今でも思うって。あのとき弁財天の前を通ったとき、何かが乗ってきたんじゃないか、って。彼女に、じゃなくて、二人の間に、そっと。
弁財天様は嫉妬深い神様だって言われてるじゃない。水の神様で、芸の神様で、美しいものを司る女神様。仲睦まじいカップルを見ると、壊したくなる、って。それがどこまで本当かはわからないけど。
ただね、これはあくまで聞いた話で、確かめようがないんだけど。あの池の水って、昔からずっとそこにあるじゃない。何十年も、何百年も。そこに沈んでいるもの、溶け込んでいるもの、まだ浮かんでいるものが、水面のすぐ下にあるとしたら。
あのボートって、ゆっくり進むでしょう。静かに。漕ぐたびにオールが水を掻いて、波紋が広がって。
その波紋が、何かを揺り起こしてるとしたら。
信じるかどうかは、あなた次第。でも今度、誰かと井の頭公園に行くことがあったら、ボート乗り場の前で少しだけ、水面を見てみて。
何かが、こちらを見てるかもしれないから。