……聞いた話なんですがね。
確かめたわけじゃないんですが、まあ、そういう話が今も千日前の界隈では囁かれているらしくて。
ある夜のことだと聞きました。千日前で飲食店を営んでいた男の人がいたそうで、名前は伏せますけど、四十前後の、どちらかといえば無口な、真面目な方だったようです。その人が店の改装工事に立ち会うために、夜遅く一人で現場に残っていたんですね。業者はもう帰っていて、あたりはしんと静まり返っている。時刻は夜中の十二時を少し回ったころだったと聞きます。
工事中ですからね、床材が剥がされていて、地面がそのまま見えている状態だったらしいんです。コンクリートの下に古い土が出てきていて、妙に黒ずんでいたそうで。作業員が昼間、「この土、変な臭いがしますね」と言っていたのを、男の人はそのときまだ気にも留めていなかったと。
ところが夜中に一人でいると、その臭いが、ふっと鼻をついてきたんですって。
生乾きのような、それでいてどこか甘ったるい、奇妙な臭い。土の臭いじゃないんですね。なんというか、ずっと湿ったまま乾いていない布、あるいは古い木材が水を吸ってじくじくしているような、そういう臭い。男の人は「なんだろう」と思いながら、工事図面を広げていたそうです。
そのときです。
剥き出しになった床の隅、ちょうど壁際のあたりから、音がしたんだそうで。
コツ、と。
最初は建物が軋んでいるのかと思ったそうです。古いビルですから、夜になると温度が下がって、そういう音が出ることもあるだろう、と。でも次の瞬間、またコツ、と。それから少し間を置いて、コツコツコツ、と。一定のリズムで、地面の下から、叩いているような音が聞こえてきたと言うんです。
下から。
男の人は動けなくなったそうです。怖いとか、そういう感情が出てくる前に、体が固まってしまったと。図面を持ったまま、ただその音を聞いていた。
音はしばらく続いて、やがて止んだそうです。
その後、男の人は荷物をまとめて外に出て、タクシーを拾って帰ったと。翌日から体調を崩して、一週間ほど寝込んでいたと聞きます。
まあ、疲れていただけかもしれないし、臭いも工事現場特有のものだったかもしれない。音だって、配管か何かだったかもしれない。そう言ってしまえばそれまでなんですがね。
ただ、千日前という土地には、ご存じの方も多いかと思いますが、江戸のころから墓地と処刑場があった。何十年も前に起きたデパートの大火災では、たくさんの方が亡くなった。地下に何が眠っているか、誰にもわからない。
男の人があとになって言っていたそうです。
あの音はね、と。コツコツ叩いていたんじゃなくて、なんか、爪で引っ掻くような感じだったかもしれない、って。
……地面の、裏側から。