これはですね、ある知人から聞いた話でして。確かめたわけじゃないんですが、妙に細かいところまで覚えてるんですよ、その人が。だからちょっと、気になってて。
渋谷の駅、ご存じですよね。日本一複雑だとか言われてる、あの駅です。再開発が進んでから特に、地下がどんどん深くなって、通路が増えて、地元の人間でも「あれ、ここどこだっけ」ってなるって話は、まあよく聞く話ではあるんですけど。
その知人、仮にKさんとしておきますが、去年の秋口のことだったそうです。終電ひとつ前くらいの時間帯。仕事が長引いて、渋谷で乗り換えようとしたらしいんですね。いつも使ってる通路を歩いてたつもりが、なんか、違う。蛍光灯の色が、ちょっと黄ばんでるんですって。いつも白っぽい光の通路なのに、そこだけ古い蛍光灯みたいな、くすんだ黄色い光がついてて。
最初は「工事中の迂回路かな」くらいに思ったらしいんです。渋谷ってしょっちゅう工事してますから。でも歩いても歩いても、案内板がない。あの、緑の矢印の出口表示、ありますよね。あれが、一枚もないんですよ。壁だけが続いてる。
床がね、タイルじゃなくてコンクリートの打ちっ放しで、しかも少し湿ってる感じがしたって言うんです。靴底に、じわっとした冷たさが伝わってくるような。地下特有の、地面から来る冷えって感じじゃなくて、もっと、上から来る冷たさだったって。表現が難しいんですけど、そう言ってました。
で、しばらく歩いたら、改札があったそうです。
古い。昔の、バーが横に倒れるタイプの、手動の改札。今の渋谷にあるはずのない、ああいうやつです。薄暗い中に、ぽつんと立ってる。しかも、駅員がいる窓口のところに、すりガラスがはめてあって。その向こうに、人の影みたいなものが、見えたんですって。
Kさん、怖いというより最初は「なんか変な展示でもやってるのかな」って思ったって言うんですよ。それくらい、現実感がなかったって。ただ、ふと気づいたら、自分の後ろに、誰もいない。さっきまで周りにいたはずの人の声も、足音も、全部消えてる。渋谷駅ですよ。あんなにうるさい場所なのに、シーンとしてる。
それで初めて、怖くなった。
引き返そうとして振り返ったら、通路がまっすぐ続いてるんですよ。来た道のはずなのに、ずっと先まで、同じ黄色い光が続いてる。どっちが来た方向なのか、わからなくなってきた。
その時に、聞こえたんですって。
改札の向こうから。すりガラスの、その向こうから。
「すみません」って。
女の声で。ひとこと。「すみません」って。
助けを求めてるのか、こっちに声をかけてるのか、それすらわからない。でも確かに聞こえた。Kさん、その場で固まって、気づいたら走ってたって言ってました。どっちに走ったかも覚えてない。気がついたら、いつもの、白い光の、人のいる通路に出てた。
駅の構内図、後から調べたんですって、Kさん。でも、そんな通路はどこにも載ってない。それはまあ、そうだろうとは思うんですが。
ただ、ひとつだけ気になることがあって。
Kさんが言うには、その改札のすりガラスに映った人影、座ってたんだそうです。窓口の、駅員がいるあの小さなスペースに、ずっと座って、こっちを向いてた。
声をかけてきたのに、立ち上がりもしなかった。