ええ、聞いてください。
仙台の話です。確かめたわけじゃないんですが、あっちの方に住んでいた知人から聞いた話でして。
八木山橋、ご存知の方いらっしゃいますか。仙台の西のほうにある橋で、谷を跨いでいるんですが……あそこ、高さが五十メートル近くあるんだそうです。橋の上に立って下を覗くと、木々の天辺が遥か下に見える。風が吹くと、谷の底から空気が押し上げてくるような感じがして、体がふっと引っ張られる気がする、なんて言う人もいます。
昔から、あの橋で亡くなった方が多いんだそうですね。それでいつからか欄干が高くされた、という話も聞きます。まあ、あの高さの欄干を見ると、そういう事情があったんだろうな、とは誰でも察するわけですが。
で、ここからが本題でして。
去年の秋口のことらしいんですが、仙台の大学に通う男の子が、夜中に自転車で八木山橋を渡ったというんです。時間は夜の二時を過ぎていたとか。友人の家に泊まるつもりだったか何かで、まあ深い理由はないんですが、とにかくその橋を一人で渡ることになった。
夜の八木山橋というのは、街灯はあるんですが、間隔が広くて、光と光の間に妙な暗がりができるんだそうです。自転車を漕いでいると、その暗がりにさしかかるたびに、谷底からの風が首筋に当たって、ひやっとする。
渡り始めて半分ほどのところで、その子は気がついたんです。
フェンスに、手がある。
最初は、誰かが橋の外側に立っているのかと思ったらしいんです。フェンスの内側から、誰かが両手でフェンスをつかんでいる、そういう絵なら普通ですよね。でも違った。手はフェンスの外側から、内側に向かって指を引っかけているんです。谷の底のほうから、這い上がってきたような格好で。
しかも一本じゃない。
街灯の届く範囲だけで、五本、六本、もっとあったかもしれない。白くて細い指が、フェンスの格子に引っかかって、ぶら下がるように揺れている。風に揺られているのか、それとも自分で揺れているのか、区別がつかなかった、と。
その子は自転車を止めて、じっと見た。怖かったと思うんですが、なぜか足が動かなかったらしい。
一歩踏み出して、手のひとつに近づいた。そうしたら、すうっと、なくなった。溶けるでもなく消えるでもなく、最初からなかったみたいに、ただなくなった。他の手も、気づいたら全部消えていた。
橋の上には自分だけ。谷底からは風の音だけ。
その子は怖くなって、自転車を漕いで渡りきったんです。橋を渡り終えた瞬間、体が軽くなった気がして、ああ終わった、って思ったらしい。
そのとき、背後から、声がしたんだそうです。
囁くような声で、耳のすぐそばで。
「……次は、あなた」
振り向いても、誰もいない。橋の上に人影もない。街灯の光が、ただ静かに橋を照らしているだけ。
その子はそのまま友人の家に泊まったんですが、翌朝から頭が割れるように痛くて、三日間ほど寝込んだそうです。熱はない。病院に行っても異常はない。ただ目を閉じると、あの白い指がフェンスにかかっているのが見える、と言っていたらしい。
しばらくしてよくなったそうですが、その後その子は、夜に外を歩けなくなったとか。
どうして夜が怖いのか、本人に聞いた人がいるんです。そしたら、こう言ったそうで。
「あの声の主が、まだ決めてないかもしれないから」
……あの橋、今でも欄干は高いままだそうです。