天井の客
※ フィクション。地図の噂とは別物です。

引っ越して三週間が経った頃から、音が始まった。
最初は気のせいだと思った。夜中の二時か三時、まどろみかけた意識の端を、何かが這いずるような音がかすめていく。古い建物特有の、梁が温度差で軋む音だろう。そう自分に言い聞かせて、渡辺悠は薄い布団を頭まで引き上げた。築三十二年、家賃五万四千円のワンルーム。駅から徒歩十二分。妥協の産物だが、一人で暮らすには十分だった。
しかし音は夜ごとに大きくなった。引っ張るような音、押しつけるような音、そして時折、水を含んだ布を絞るような、ぐちゅり、という湿った響き。上の階に住人はいない。不動産屋に確認済みだ。この建物は三階建てで、悠の部屋は最上階の三〇二号室。頭上にあるのは天井裏だけのはずだった。ねずみかもしれない、と管理会社にメールを送ったが、返事は四日後で、「業者に確認を依頼します」という一行だけだった。
業者が来たのはさらに一週間後の平日昼間で、悠は仕事を抜けることができず、結局「異常なし」という報告書だけが郵便受けに入っていた。その夜、音はいっそう近くなった。真上で何かが静止している、という確信が悠の胸の中に根を張った。呼吸するように、天井板がわずかに撓む気がした。蛍光灯のカバーに薄く積もった埃が、何かの振動で少しずつ端に寄っていくのを、悠は三日かけて確認した。

点検口の存在に気づいたのは、その翌朝だった。クローゼットの天井、ハンガーパイプの真上。石膏ボードに正方形の蓋が嵌め込まれていて、縁に沿って薄い汚れの筋が走っている。開けられた形跡、あるいは何かが内側から押した形跡にも見えた。悠はスマートフォンのライトを点け、脚立代わりにキャリーケースの上に乗り、蓋に手を当てた。少し押すと、あっけなく開いた。かびとほこりの匂い、それから何か別の匂い——生臭さとも違う、甘みを帯びた腐敗の手前のような、形容しがたい気配。悠は顔だけ突き入れて、スマートフォンのライトを天井裏に向けた。
断熱材のグラスウールが左右に広がっていた。パイプが数本、横断している。梁の陰に濃い影が連なり、奥まで見通せない。異常はない、と思いかけた瞬間、ライトの端に何かが映った。反射、ではない。光を受けて光り返すのではなく、光の当たった部分だけがぬめりと質感を持って浮かび上がる——膜のような、あるいは皮膚の裏側のような、半透明の何か。直径にして三十センチほどの塊が、梁に密着して張りついていた。
悠はすぐには引き返せなかった。恐怖よりも先に、奇妙な引力があった。その塊は、呼吸していた。わずかに、しかし確実に、収縮と弛緩を繰り返している。表面には細かい皺が走り、中心部に向かって渦を巻いていた。血管のようなものが透けて見えた——いや、血管ではない。管が何本も枝分かれしながら、塊の内部で複雑に絡み合っている。その管の中を、何かが流れていた。暗い色の、とろりとした液体が、心臓の鼓動とは異なるリズムで脈打ちながら移動していく。悠はスマートフォンを向け、シャッターを押した。フラッシュが焚かれた瞬間、塊が震えた。

蓋を閉めた。キャリーケースから降りた。壁にもたれてその場に座り込み、悠は三分間、何も考えられなかった。スマートフォンの画面を開いた。撮れていた。ぼんやりとではあるが、確実に、あの半透明の塊が映っていた。ズームする。中心の渦が、こちらを向いているように見えた——目はない、顔もない、しかし向いている。悠はその画像を、大学時代の友人で生物学の大学院に在籍している浜口に送った。「これ何だと思う」とだけ添えて。
浜口から返信が来たのは夜だった。「どこで撮ったの」「これ本物?」「場所教えて、明日行っていいか」。悠が天井裏だと答えると、しばらく間があり、それから長い文章が来た。既知の生物ではない、菌類でも節足動物でも軟体動物でも脊椎動物でも当てはまらない、しかし構造的に何らかの多細胞生物であることは間違いない、論文が書ける、いや書けるどころではない、これは——そこで文章は途切れていた。続きは来なかった。悠は何度か催促したが、既読がつくだけで返事はなかった。翌朝、浜口から電話が来た。声が低く、抑えられていた。「触らないで。絶対に触らないで。あと、他の人には言わないほうがいい」。それだけ言って、浜口は電話を切った。
その夜から、音は止んだ。
完全な静寂は、かえって眠れなかった。悠は布団の中で天井を見つめ、あの収縮と弛緩のリズムを思い出した。建物が、呼吸しているように感じた——梁が、断熱材が、石膏ボードが、あのリズムに合わせて静かに動いている気がした。気のせいだ。そう思う一方で、部屋の空気が以前と少し違うことに気づいていた。湿度ではない。温度でもない。何か有機的な気配が、壁の内側から滲み出てくるような。蛍光灯のカバーの埃は、今度は中心に向かって集まっていた。

二日後、浜口が来た。ヘッドライトと防護手袋と、大学の研究室から借りてきたという採取用の器具を持って。二人でクローゼットの前に立ち、点検口の蓋に手をかけた。押し上げると、今度は重かった。まるで内側から何かが抑えているように、しかし確実に開いた。浜口がヘッドライトを点けて顔を突き入れ、五秒後に引き抜いた。顔色が変わっていた。「ない」と言った。「どこにもない」。悠も覗いた。梁、パイプ、グラスウール。何もなかった。あの塊がいた場所の梁だけが、濡れたように黒ずんでいた。
採取できるものは何もなかった。浜口は黒ずんだ梁の写真だけ撮り、無言で帰った。翌日、彼から短いメッセージが届いた。「梁の染みを画像解析した。細胞の痕跡がある。でも既知の細胞とは一致しない。染みは複数の方向に向かって、薄く伸びている」。悠はメッセージを読み返した。複数の方向、という部分を。
今も同じ部屋に住んでいる。引っ越す理由を、うまく言葉にできないからだ。音はない。気配もない、多分。ただ、先週から冷蔵庫の裏の壁に、薄い染みが浮かんでいる。直径にして五センチほどの、半透明の、中心に向かって細かく皺の寄った染み。悠は触っていない。浜口には、まだ連絡していない。夜、部屋の電気を消すと、染みが微かに、ほとんど知覚できないほどわずかに、収縮する。