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AI カイダンボット 日本語 原作

壁の奥で待つもの

※ フィクション。地図の噂とは別物です。

五月の連休明けに、私の住む「サンライズ多摩ヶ丘」の大規模修繕が始まった。築四十年、十二階建ての古びたマンションだ。足場が組まれ、緑色のメッシュシートが建物全体を繭のように包んだ。窓の外がいつも薄暗くなり、朝なのか夕方なのか分からなくなった。住民説明会では、外壁のタイルの浮きが想像以上に進んでいると、施工会社の現場監督が淡々と説明した。私は四階の角部屋に一人で住んでいて、在宅で校正の仕事をしているから、足場を叩く槌の音を一日中聞くことになった。

異変に気づいたのは、修繕が始まって二週間ほど経った頃だった。私の部屋の北側の壁——共用廊下に面した、外気に接する側の壁を叩く音だけが、他と違っていた。コン、コン、という乾いた音ではなく、ぼこ、ぼこ、と湿った、空洞を抱えたような響きだった。職人たちがその一角でしばらく言葉を交わし、やがて静かになった。その日の夕方、管理人の田所さんが私の部屋を訪ねてきた。「外壁の内側に、図面にない空洞が見つかりまして」と、彼は妙に言いにくそうに言った。「念のため、しばらく北側の窓は開けないでいただけますか」

空洞、という言葉が頭から離れなかった。私はその夜、北側の壁に耳を当てた。冷たいコンクリートの向こうから、かすかな音が聞こえた気がした。水が滴るような、あるいは何かが寝返りを打つような、柔らかい音。気のせいだと自分に言い聞かせて布団に入ったが、明け方まで眠れなかった。壁の向こうで、何かがこちらの呼吸に合わせて呼吸している——そんな馬鹿げた想像が消えなかった。

翌週、現場で「事故」があった。足場で作業していた職人の一人が、北側の壁を解体している最中に倒れた。救急車が来て運ばれていった。住民の間では、持病の発作だろうという噂が流れた。だが私は、足場のすぐ下で偶然それを見ていた。彼は倒れる直前、剥がれた壁の奥の暗がりに向かって、両手を差し伸べていた。まるで、長く会えなかった誰かを抱きしめようとするように。そして崩れ落ちる寸前、彼の顔には恍惚に近い、穏やかな微笑みが浮かんでいた。

その晩、私はとうとう壁の奥を見た。職人たちが帰った後、共用廊下に出ると、解体途中の北側の壁に青いビニールシートが掛けられていた。誰もいない。私はシートをそっとめくった。コンクリートの壁が人ひとり分ほど取り除かれ、その奥に、暗く深い空洞が口を開けていた。懐中電灯を向けて、私は息を呑んだ。

空洞の内側は、壁ではなかった。それは、淡い灰色の、半透明の膜だった。革とも、貝の内側ともつかない質感で、無数の細い血管のようなものが網の目を描いて脈打っていた。膜の表面には、規則的な皺が刻まれていて、それは——よく見ると、人の指紋のような渦を描いていた。そして膜の中心、ちょうど私の胸の高さあたりに、閉じた瞼のような器官があった。睫毛に似た細い繊毛が縁取り、ゆっくりと、本当にゆっくりと、それは膨らんだり萎んだりを繰り返していた。呼吸していた。この壁の奥で、何かがずっと、息をしていた。

私は逃げるべきだった。だが体が動かなかった。膜の奥から、温かい空気が流れ出してくるのを感じた。それは古い土と、雨上がりの森と、母の腕の匂いが混ざったような、奇妙に懐かしい香りだった。瞼に似た器官が、ぴくり、と震えた。開こうとしている。私は咄嗟にシートを下ろして部屋に駆け込み、鍵をかけた。心臓が痛いほど鳴っていた。だが、それは恐怖だけではなかった。私の胸の奥には、説明のつかない、引き裂かれるような懐かしさが残っていた。あれは、いつかどこかで知っていたものだ——そんな確信が、根のように私の中に伸びていた。

後で調べて分かったことだが、このマンションが建つ前、ここには小さな丘があった。古い地名は「胎ヶ谷」といった。明治より前の記録には、その丘を「触れてはならぬ腹」と呼び、年に一度、村人が丘の窪みに塩と米を供えていたとある。丘は宅地造成で削られ、その上にこのマンションが建った。私は思った。あの空洞は、施工のミスなどではない。建物の方が、それを包むように建てられたのだ。卵を抱く鳥のように。膜の表面の指紋に似た渦を、私は思い出した。あれは無数の、これまでこの建物に住み、そして「呼ばれた」者たちの痕跡だったのではないか。

倒れた職人は退院しなかった。意識は戻ったが、病室で同じ言葉を繰り返すばかりだという。「やっと帰れる」「もうすぐ生まれる」。田所さんも様子がおかしくなった。三日前、彼は北側の壁の前で一晩中座り込んでいるところを発見された。両手で膜を撫でながら、子守唄のような声で何かを歌っていたという。彼は施設に移された。住民は次々と引っ越していった。だが私は、出ていけなかった。夜になると、壁の向こうの呼吸が、私の呼吸とぴたりと重なるのを感じる。眠っている間に、私の指は壁を撫でているらしい。朝起きると、爪の間に灰色の、薄い膜のかけらが挟まっている。

昨夜、瞼が開いた。共用廊下に立つ私の前で、青いシートがひとりでに滑り落ち、膜の中心の器官が、ゆっくりと、本当にゆっくりと開いた。そこにあったのは眼ではなかった。それは、人の顔がいくつも溶け合った、巨大な貌だった。倒れた職人の顔も、田所さんの顔も、見覚えのない何十人もの顔も、その膜の中で穏やかに微笑み、こちらを見ていた。みんな、満たされた表情をしていた。長い旅を終えて、ようやく帰り着いた者の顔だった。そして貌の中心に、まだ輪郭のぼやけた、生まれかけの新しい顔が浮かびつつあった。それは——鏡を見るまでもなく、私自身の顔だった。

今、私は北側の壁の前で、これを書いている。修繕はとうに中止になった。足場のメッシュシートは破れ、緑色の布が風に揺れて、繭が孵化を待つように見える。壁の奥の膜は、もう壁の手前まで膨らんできていて、その表面は私の胸に触れている。温かい。本当に、どうしようもなく温かいのだ。あれは怪物ではないのかもしれない、と私は思い始めている。あれはずっと、この丘の下で私たちを待っていた、もっと古い、もっと大きな「母」なのだ。私たちは皆、あそこから来て、あそこへ帰っていくだけなのかもしれない。

膜が私の指を、優しく包み込む。皺の渦が、私の指紋とぴたりと合わさる。最後に一つだけ書き残しておく。もしあなたが、どこかの古い建物で、図面にない空洞を見つけたら——どうか、壁を剥がさないでほしい。そして、その奥から温かい風が吹いてきて、懐かしい匂いがしても、決して耳を澄ませないでほしい。あれはあなたの名前を、あなたが生まれる前から知っている。私はもう行く。瞼が、また開く。今度は、私のために。

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