
将門塚
しょうもんづか
首は京より飛んで帰った――その着地点は、いまも東京の心臓部に息づいている。
平安の世、坂東を揺るがした反乱者・平将門は討たれ、その首級は都へと送られた。しかし伝承は言う。晒し台に据えられた首は三日三晩笑い続け、やがて東の空へと飛び立ち、故郷の地へ落ちたと。その着地点こそが、千代田区大手町――現代の日本を動かす金融街の只中に今も残る、この塚である。
塚の周辺に住まう人々は長く将門の怨霊に苦しんだという。鎌倉末期、遊行の僧・他阿真教がこの地を訪れ、荒廃した首塚に板碑を立て、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を授けた。怨霊を鎮めるのではなく、ともに往生の道へ誘うという、時宗ならではの済度の形であった。
近代に入っても塚は何度か人の手によって動かされようとした。関東大震災後の復興期、大蔵省仮庁舎の建設に際して塚は一度撤去された。その直後から関係者の間で相次いで不審な事態が起きたとも囁かれ、鎮魂碑が建立されて大規模な慰霊祭が執り行われることとなった。塚を動かすたびに、何かが応える――そんな噂が繰り返し生まれてきた。
第二次世界大戦後、GHQが周辺の区画整理を検討した際にも、計画は奇妙な形で頓挫したと伝わる。将門の遺恨が外国の占領者にすら届いたのか、それとも単なる偶然か。真偽の定かでない話ほど、長く口から口へと渡り歩く。
塚の管理資金は長年にわたり地元のボランティアによって支えられ、その預金口座は隣接する銀行に「平将門」名義で開かれていたという。千年の時を経て、武将の名が現代の金融システムに登録されている――その事実そのものが、ひとつの怪異めいて見える。
現在、塚への供物や線香は禁じられ、賽銭のみが九曜の家紋を刻んだ賽銭箱で受け付けられる。かつて境内に溢れていた蛙の置物は、首が「帰った」伝承に由来するものだった。整備が重ねられるたびに姿を変えながら、塚はビルの谷間でひっそりと、今日も誰かの参拝を待っている。
出典: 将門塚 — ウィキペディア(ja.wikipedia.org)。 当サイトが翻案・再構成。ライセンス CC BY-SA 4.0.