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怪異・クリーチャー ▰▰▰▰▰

崇徳院の怨霊

すとくいんのおんりょう

讃岐の地で爪を噛み切り、血で呪詛を綴った男の念は、九百年を経てなお冷めていない。

平安の末、第七十五代天皇として幼くして即位した顕仁は、父・鳥羽上皇の策謀によって「皇太弟」という一語で院政の道を永遠に閉ざされた。譲位の宣命に刻まれたその文字は、玉座ではなく墓穴への招待状だったと後世の者たちは囁く。

保元元年(一一五六年)、貴族と武士が血を流した保元の乱に敗れた崇徳上皇は、遠い讃岐国へ流された。都の空気も、妻の顔も、二度と見ることは叶わなかった。

配流の地で上皇は五部の大乗経を写経し、朝廷への奉納を願い出たという。しかし勅命はその願いを退け、写経は送り返された。その時の絶望と憤怒がいかほどであったか——上皇はその後、爪も髪も剃らず、鬼の形相で日々を過ごしたと伝わる。舌を噛み切った血で経典の奥書に呪詛を書き連ね、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と誓ったとされる。

長寛二年(一一六四年)、上皇は讃岐で崩御した。その後、都では天変地異が相次ぎ、後白河天皇の近臣たちが次々と非業の死を遂げた。人々は恐れた——崇徳院の怨念が、ついに動き出したのだと。菅原道真、平将門と並び称される「日本三大怨霊」の一柱として、その名は今も畏怖とともに語り継がれる。

讃岐の白峯に祀られた御霊は、やがて白峯神宮として京都にも勧請された。怨霊を宥めるための社であると同時に、それは朝廷が崇徳院の念の深さを認めた証左でもある。今も讃岐の山道を歩く者が、夜更けに白い装束の影を見たと言う。その影は振り返らない。ただ、遠ざかりながら、微かに経を読む声が聞こえるだけだ。

宮廷の腐敗・流刑の孤独・呪詛・怨念・静かな恐怖 怨霊平安時代三大怨霊讃岐天皇呪詛実在の人物保元の乱
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出典: 崇徳天皇 — ウィキペディア(ja.wikipedia.org)。 当サイトが翻案・再構成。ライセンス CC BY-SA 4.0.