
天叢雲剣/草薙剣
あめのむらくものつるぎ/くさなぎのつるぎ
八岐大蛇の尾から現れたその刃は、一度失われ、それでもなお「在る」とされている。
出雲の川辺、酒に酔わせた大蛇の尾をスサノオが割ると、内側から光を帯びた剣が滲み出るように現れた。天上の霞が剣の周囲に漂っていたとも、雲そのものが刃の形をしていたとも語られる。その名「天叢雲」は、生まれた瞬間の光景を刻んだ記憶であり、後に草を薙ぎ払う力を示して「草薙」とも呼ばれるようになった。
スサノオはこの神剣を高天原のアマテラスへ献じ、やがて天孫ニニギの降臨に際して地上へと下った。三種の神器のうち、鏡が「知」を、勾玉が「慈」を象徴するとすれば、この剣は「断つ力」——武力と決断——の化身であると、後世の神学者たちは繰り返し記した。
崇神天皇の御代、剣の形代が造られた。本体と写し身に分かたれた時点で、すでに何かが乱れ始めたとも言える。本体はヤマトタケルの東征へと携えられ、英雄の死後も尾張の地で留まり、やがて熱田神宮の御神体となった。形代は宮中に残り、二つの「剣」が異なる場所で静かに息をし続けた。
治承・寿永の乱のさなか、平家と共に西へ落ちた形代の神剣は、壇ノ浦の波に呑まれた。安徳天皇とともに関門海峡へ沈んだとされるその剣は、遂に引き上げられることなく失われた。朝廷は伊勢神宮から別の剣を得て「天叢雲剣」の名を与えたが——それが真の神剣であるかどうか、記録は沈黙したままである。
南北朝の動乱期、二つの朝廷がそれぞれ「神剣を持つ」と主張し、正統性を争った。どちらの手にある剣が本物であるか、あるいはどちらも写しに過ぎないのか、答えは出ないまま和議が結ばれた。今も宮中に祀られる形代の神剣は、その出自を問われることを好まないかのように、一切の実見を拒んでいる。
熱田の御神体もまた、目にした者の記録は存在しない。深夜の境内で白い光の筋が走ったという噂は今も絶えないが、それが神気なのか、あるいは海底に沈んだ何かが戻ろうとしているのか、誰も確かめることができない。
出典: 天叢雲剣 — ウィキペディア(ja.wikipedia.org)。 当サイトが翻案・再構成。ライセンス CC BY-SA 4.0.