えー、聞いた話なんですが。
確かめたわけじゃないんで、どこまで本当かはわからない。でも、何人かから同じような話を聞いたので、今夜ちょっと、話させてもらおうかと思って。
福岡の、油山っていう山があるんですよ。昼間はね、家族連れが弁当広げてるような、ごく普通の市民の森です。でも、奥の方に、地図に名前が載ってない小さな湖があるって話がある。地元では昔から「狐湖」って呼ばれてるらしいんですが、正式な名前は、どうも誰も知らないらしい。
で、二年ほど前の秋のことだって言うんですが。
陽介、っていう大学生がいて。まあよくある話で、友人たちと肝試しにその狐湖を目指したわけです。夜の十一時過ぎ、四人で山道に入った。懐中電灯を持って、わいわい言いながら登ってたらしいんですが、途中からだんだん、誰も喋らなくなったって。
理由はよくわからない。怖いっていうより、なんか、喋る気がしなくなったって、後から友人の一人が言ってたそうで。
山道を三十分ほど歩いたところで、木が開けて、湖に出た。月が出てたんで、思ったより明るかったって。水面がぼんやり光って、風もなかったんで、湖はまるで鏡みたいにしんとしてたらしい。
陽介がね、湖のふちで立ち止まったんですって。
そしたら水面に、月が映ってた。当たり前ですよね、月が出てりゃ映る。でも友人の一人が、隣でそれを見ていて、なんかおかしいと思ったって言うんです。月の形が、細長い。満月に近い夜だったのに、水面の月だけが細くて、しかも、ゆらゆらと動いてた。風がないのに。
それで、よく目を凝らしたら。
耳が、二本、立ってたって。
水面の中の光が、狐の形をしてたって言うんですよ。尻尾がふっと広がって、こちらをじっと、見てた。
その時、陽介が急に、湖の方へ歩き出した。
「おい」って友人が呼んだけど、振り返らない。「陽介、おい」って肩を掴もうとしたら、陽介の体が、妙に冷たかったって。十月とはいえ、そこまで冷えてない夜だったのに、まるで水の中にいたみたいに冷たくて、それが怖くて思わず手を離してしまったって。
陽介は湖のふちで膝をついて、水面をのぞき込んだ。
その瞬間、水面がぱっと揺れた。さざ波でも、なんかが跳ねたわけでもない。内側から、揺れた。
陽介が「うっ」って声を出して、よろけて。友人たちが引っ張って、四人でそのまま山を下りた。
下りながら陽介は何も喋らなかった。家まで送って、別れた。それが最後だったって。
数日後、友人たちに連絡が取れなくなって、家に行ったら、部屋はあった。荷物もあった。でも陽介はいなかった。
警察が捜索に入ったらしいんですよ。油山の山道を入って、あの湖のあたりまで。そこで見つかったのが、靴だったって。
湖のふちに、きれいに揃えて、置いてあったって。
それだけで。陽介の姿は、どこにもなかった。
……靴がね、気になるんですよ。
脱いで、揃えてあった。誰かが揃えたか、自分で揃えたか。でも、揃えて脱いだってことは、その先に、入っていく気で、いたってことじゃないですか。
あの水面に映った狐が、まだ待ってたのかもしれない。
それとも、あの夜すでに、約束してたのか。