ちょっと、聞いてもらえますかね。
丹沢の話です。神奈川の、あの山の話。
確かめたわけじゃないんですけど、まあ、こういうことを言う人がいるんですよ。山の奥のほうに、「山の神トンネル」って呼ばれてる場所があるらしくて。地元じゃ昔から、あそこだけはあんまり近づかないほうがいい、って言い伝えがあるんだそうです。
で、三年か四年ほど前の話、らしいんですけど。
ある男の人が、一人で丹沢に入ったんですね。ベテランの人で、もう何十回も同じ山域を歩いてる。装備も充分、天気も悪くない。十月の終わりで、日は短いけれど、昼前に入山して夕方には下りてくる予定だったと聞きます。
ところが、夕方になっても戻らない。
最初は、まあ少し長引いただけだろうと。そういう判断だったらしいんですよね。でも夜になっても音沙汰がない。翌朝、捜索が始まったんですけど、これがまた、何も出てこなかったそうなんです。荷物もない、足跡もない。沢に落ちた形跡もなければ、獣にやられた様子もない。
まるで、途中から道ごと消えてしまったみたいに。
ひとつだけ残ってたのが、登山口の駐車場に置かれた車。それだけだったと聞きます。
地元の人に言わせると、あの山には霧が出る日ってのが特別に危ないんだそうで。それも、朝霧とか夕霧じゃなくて、晴れてるのに突然ふっと湧いてくるような、あの白い霧。視界が二、三メートルになって、自分の足元しか見えなくなる。そういう霧が出ると、道がね、変わるんだそうです。歩いてる道が、急に知らない道になってる。同じところをぐるぐる回ってるのに、景色が毎回違う。
これ、山ではよくある話だとも言えるんですけど、丹沢のそのあたりは、ちょっと違うらしくて。
その男の人が消える少し前に、同じコースを歩いた別の登山者がいるんですね。その人は無事に下りてきたんですけど、トンネルの手前で、なんか変なものを見たって言ってたそうで。
霧の中で、人が立ってた、と。
道の端に、じっとこっちを向いて立ってる人影がいたらしいんですよ。登山姿ではなくて、普通の服を着た人間に見えた。声をかけようとしたら、その人影が、ゆっくり、トンネルの中に歩いていったと。
その人は、追わなかった。なんとなく、追ってはいけない気がして、そのまま来た道を引き返したって言うんですね。
でね、それを後から聞いた地元の古い人が、「それが呼ぶんだ」ってぽつりと言ったらしいんですよ。「あれについていった人は、戻ってこない」って。
それ以上は何も言わなかったそうです。
ただ、ひとつ気になる話があって。
消えた男の人の家族が、しばらくして山に入ったことがあったらしいんですよ。手がかりを探しに、というよりは、もう半分、お別れのつもりで。その家族の人が、トンネルの前に立ったとき、中から風が吹いてきたと言うんですね。
十一月の山の中ですから、冷たい風はあたりまえなんですけど、その風だけ、違ったって。
生ぬるかった、と。
まるで、人の体温みたいに、と。
その家族の人、それ以来、山には近づいていないそうです。