これはね、ずいぶん昔の話だって聞いてます。鎌倉の頃のことらしい。らしい、というのは、確かめようがないからで。でも、確かめようがないからこそ、ずっと語り継がれてきた話でもあるんですよね。
浅草寺で、法要があったそうです。
秋の、雨上がりの夜だったとか。境内にお坊さんが五十人ほど集まって、読経をしていた。ろうそくの光が雨水を含んだ石畳に揺れて、お線香の煙が低く漂って、そういう、静かな夜だったらしいんです。
最初に気づいたのは、川の匂いだったって聞きました。
隅田川は近い。だから川の匂いがするのは別に不思議じゃない。ただ、その夜の匂いは少し違ったんだそうです。泥と、腐った草と、もうひとつ、何か獣のような……生臭いような……うまく言えないけど、普通じゃない匂いが、風もないのに、ふっと境内に流れてきたと。
読経の声が、少しずつ乱れていったそうです。
誰かが気づいた。川のほうから、何かが来る。
暗くてよく見えない。でも、でかい。牛より大きい。牛の形をしているのに、水の中から上がってきた。ぬれた泥を引きずりながら、ゆっくりと境内に入ってきた。足音が、ない。あれだけの大きさなのに、足音がまったくしなかったって言うんです。
声もなかった。
ただ、そこにいた。
お坊さんたちは逃げようとした。でも、足が動かなかった人も多かったらしい。怖くて、ではなくて、体が言うことを聞かなかった。後でそう証言した人がいたとか。
その夜、七人のお坊さんが亡くなったと言います。境内で、その場で。倒れたまま、起き上がらなかった。残りの二十四人は、翌日から次々と体を壊して、長い者は何年も病に苦しんだと。
見ただけで。
近づいたわけでも、触れたわけでも、何をされたわけでもない。ただ、あれを見た。それだけで、そうなった。
その牛鬼は、浅草寺から逃げるように、近くの牛嶋神社のほうへ消えていったと伝わっています。隅田川のほとりに今もある、あの神社です。逃げた、というよりは、戻った、という感じがしませんか。最初からそこにいたものが、少しだけ、岸に上がってきた、みたいな。
ひとつだけ、妙に引っかかる話があってですね。
後日、そのとき生き残ったお坊さんのひとりが、こんなことを言ったんだそうです。あれが来たとき、自分は目を閉じた。怖くて、見られなかった。だから助かったのかもしれないと。
ただ、と、そのお坊さんは続けたらしい。
目を閉じていたのに、まぶたの裏に、あれの顔が見えた、と。
どんな顔だったか、そのお坊さんは最後まで話さなかったそうです。何度聞かれても、ただ、首を横に振るだけだったって。
今でも隅田川の川面が、夜、妙に静かな夜に、ぬめっと光ることがあるって言う人がいます。あれは月の反射だって言う人もいる。まあ、そうなんでしょう。きっと。
ただ、川岸を歩いていて、ふと、腐った草と獣の混ざったような匂いがしたら。
その夜は、早めにお帰りになったほうがよろしいかと思います。