ねえ、聞いてくれる?
新宿三丁目の話なんだけど……確かめようがないから、本当かどうかは、わたしにもわからないんだけどね。
友人の友人から聞いた話、って言ったらよくある都市伝説みたいで、信じてもらえないかもしれないけど。でも、その人、今でもあの夜のことが頭から離れないって言ってるらしくて。だから、こうして話が流れてきたんだと思う。
その人、三丁目で働いてる三十代の男性で、名前は……まあ、仮にナカムラさんとでもしておきましょうか。
その夜は、会社の飲み会だったらしいの。終電にはまだ少し間があって、酔い覚ましに歩いて帰ろうと思ったって。新宿三丁目の駅を出て、いつも通る細い路地に入ったところまでは、ごく普通の帰り道だったそうよ。
夜中の一時をちょっと過ぎた頃。あの辺って、そんな時間でもネオンが滲んで、どこかから酒と脂の混ざった匂いが漂ってきて、人の気配が絶えないじゃない。でもその夜は、なぜか静かだったって。
路地に入った途端、ふっと……音が遠くなった気がしたらしくて。
いつも通る道なのに、なんか今日は長いな、って思いながら歩いてたら、前方に見覚えのある交差点が見えてきた。右に曲がれば、いつも目印にしてる雑居ビルがあるはずで、一階に深夜営業のコンビニが入ってる、あのビルよ。窓に貼られた古い格闘技イベントのポスターが、なんか好きだったって、そう言ってたらしい。
曲がった瞬間に、足が止まった。
……ビルが、なかったって。
ただの空き地が、広がってたって。
舗装もされていない、黒い土の地面がそこにあって。月明かりも届かないのに、なぜかその空き地だけ、妙にはっきりと見えたって言うの。周りのビルはある。左手のカラオケ店も、右奥の居酒屋の赤提灯も、間違いなくいつもの景色なのに。そこだけ、ぽっかりと、切り取られたみたいに何もなかった。
ナカムラさん、最初は自分が酔ってるんだと思ったって。
でも、足が動かなかった。
空き地の真ん中に、何かいたから。
人、なのか、人の形をしたものなのかわからないんだけど……こちらに背を向けて、ただ立ってたって。動かない。声も出さない。ただ、そこに、立ってる。
ナカムラさんが息を呑んだ瞬間に、その影が……ゆっくり、こちらを振り向きかけたって。
「かけた」ってところで彼は走り出したから、顔は見ていないらしい。
でも、一個だけ気になってることがあるって、後でぽつりと言ったらしいの。
振り向きかけたその影の、首の角度が、おかしかったって。
人間の首って、こう、後ろを向くとき、肩より先には回らないじゃない。でもその影は……もっと、回ってたって。
翌日の昼間、怖々確かめに行ったら、雑居ビルは普通に建ってたそうよ。一階のコンビニ、窓の格闘技ポスターも、そのまま。何事もなかったみたいに。
ただ……ナカムラさん、しばらくしてから気づいたらしくて。
そのポスターの格闘技イベント、日付を見たら、八年前のものだったって。
ずっとそこにあったのに、今まで一度も気にしたことがなかったって。
あの空き地に立っていた影が、何を待っていたのか。なぜあの夜だけ、ビルが消えていたのか。それは誰も知らないし、ナカムラさんも、もうあの道は通らないって言ってるらしいから。
……ねえ、今夜、新宿を歩く予定がある人は。
角を曲がる前に、一度だけ、深呼吸してみて。
見慣れた場所が、本当にそこにあるかどうか。
確かめてから、曲がった方がいいかもしれないから。