福岡市の中心、天神地区。昼間はショッピングやビジネスで賑わうこの場所も、夜になると異なる顔を見せる。古くからこの地域には様々な都市伝説があり、そのひとつ「天神の夜に囁く声」は特に有名だ。
ある春の夜、仕事終わりのサラリーマン、田中は天神で同僚たちとの飲み会を終えて帰路についた。終電を逃し、歩いて家に帰ることにした彼は、人気の少ない小道を選んだ。街灯に照らされた細い路地は静まり返り、彼の足音だけが響いていた。
ふと、背後から微かな声が聞こえてきた。「…助けて…。ここにいる…」振り返っても誰もいない。酔いがまだ残っているのだろうと気にも留めず、彼は歩みを進めた。しかし再び声が聞こえる。「…ここだよ…助けて…」
声の方向を確認しようと、田中は立ち止まり、周囲を見回した。すると、細い路地の奥、黒い影が動くのが見える。気味が悪いと思いながらも、何かに引き寄せられるように彼は影に近づいた。
路地の終わりに辿り着いた時、彼は異様な光景を目にした。薄暗い場所に、古びた祠があり、そこには見知らぬ女性の姿があった。彼女は古い和服を身にまとい、目を腫らして泣いている。「助けてくれ…ここから出して…」その声は先ほど聞こえたのと同じだ。
田中は驚きのあまり動けなくなった。女性の目が彼にじっと向けられ、動けない彼を見透かすように微笑んだ。その瞬間、彼は背筋に冷たいものが走るのを感じた。彼女の姿は次第にぼやけ、やがて夜の闇に溶け込むように消えてしまった。
息を呑み、立ち尽くしていた田中は、ようやくその場から逃げ出した。振り返ることなく、ただひたすらに走り続けた。彼が家に辿り着いた時、彼の心には一つの疑問だけが残っていた。なぜあの祠にいたのか、そしてなぜ自分に助けを求めたのか。
それ以来、田中はあの路地に近づくことはなかった。しかし、天神を訪れる度に、あの囁き声が耳の奥で囁くように感じるという。それは、今もなお天神の夜に響く、古くからの怪異の一つなのかもしれない。