映さぬもの
※ Fiction. Separate from the map’s rumors.

四月の終わりに、佐々木奈緒はフリマアプリで姿見を買った。縦百八十センチ、幅五十センチ、アンティーク調の木製フレームに細かな唐草模様が彫り込まれた、ひと目見て気に入った品だった。出品者のプロフィールは「整理中のため早めに手放したい」とだけ書かれており、コメント欄には何もなかった。価格は三千円。送料込みで三千八百円。玄関に届いたダンボール箱を開けると、梱包材に包まれた鏡は思ったより重く、奈緒は夫の健司を呼んで二人がかりで寝室に運んだ。
設置したその夜、奈緒は鏡の前に立った。照明を受けた鏡面は澄んでいて、傷ひとつなかった。ただ、ひとつだけ気になることがあった。自分の映像が、ほんのわずかに――コンマ一秒ほど――遅れて動く気がした。瞬きをしたあと、鏡の中の自分が瞬きを返すまでの間に、薄い隙間があるような感覚。奈緒は目が疲れているせいだと思い、洗面台で顔を洗って眠った。
翌朝、健司が朝食中に箸を落とした。拾い直そうと前屈みになり、椅子から転落した。幸い打撲だけで済んだが、奈緒は台所の床が濡れていたのだと思い込んだ。二日後、小学三年生の息子の蓮が自転車で転んで左手の甲を五針縫った。翌週、奈緒の母がスーパーの駐車場で追突事故に遭った。被害は軽微だったが、母は電話口で「最近ついてないわねえ」と笑った。奈緒もそのときはまだ、笑い返した。
変化に気づいたのは五月の連休明けだった。健司の会社で重要な取引が白紙に戻り、蓮の担任教師から「授業中にぼうっとしていることが増えた」と連絡が入り、奈緒自身もパートの仕事でミスを連発して店長に呼び出された。それぞれの出来事はどれも、言い訳のできる普通の失敗だった。だが奈緒の中で何かが結びついた。四月の終わりから、ずっと。

その夜、奈緒は一人で寝室に入り、姿見の前に立った。部屋の電気を消し、スマートフォンのライトだけで照らすと、鏡面の質感が昼間とは違って見えた。光が当たる角度によって、ガラスの奥に薄い層があるような気がした。水面の下に何かが沈んでいるような。奈緒は鏡に顔を近づけた。自分の息がかかってガラスが曇り、曇りが引いていく数秒の間に、奈緒は確かに見た。鏡の中の自分の目が、一瞬だけ違う方向を向いた。右ではなく、左の奥の暗がりを。奈緒は振り返ったが、そこには何もなかった。
出品者に連絡を取ろうとしたが、アカウントはすでに退会していた。商品ページのコメント欄を遡ると、購入前には表示されていなかった一件のコメントが残っていた。ユーザー名は「kieta_hi」、本文はひらがなで十二文字だった。「これはかえしてください」。奈緒は運営に報告したが、翌日にはそのコメントごとページが消えていた。スクリーンショットを撮っておかなかったことを、奈緒は後悔した。
六月に入ると、家族全員が鏡の前を避けるようになった。意識してそうしているわけではなく、自然と動線が変わっていた。健司は着替えを済ませてから寝室に入り、蓮は朝の支度のとき寝室のドアを閉めたままにするようになった。誰も鏡の話をしなかった。奈緒だけが毎晩、眠りにつく前に鏡面を見つめ、そのたびに自分の顔が少しずつ変わっているような気がした。目の下のくまが深くなる。頬がこける。肌が乾く。鏡が老化を早めているのではなく、鏡が自分を少しずつ「映し取っている」のだと、奈緒はある夜から思うようになった。

蓮がはじめて口にしたのは、六月の第三土曜日の夜だった。夕食の片付けをしていた奈緒のそばに来て、息子は小声で言った。「ねえお母さん、寝室の鏡、誰かいない?」奈緒は手を止めた。「何が?」「夜中に鏡が光るんだよ。薄く青っぽく。で、中に人が立ってる。知らない人」奈緒は膝をついて息子の顔を見た。蓮の目は真剣だった。「それを見てから、変な夢ばかり見る。走っても走っても進まない夢」奈緒はその夜、鏡の前面に布をかけた。ベッドのシーツを剥いで、金属製のフレームに結わえつけた。
布をかけてから三日間、家の中は静かだった。健司は「なんか少し楽になった気がする」と言い、蓮は久しぶりによく眠れたと話した。奈緒は鏡を処分しようと決めた。粗大ゴミの申し込みをしようとしたその夜、布が落ちた。窓は閉まっていた。風はなかった。朝目が覚めると、寝室の床に白いシーツが広がっていて、その中心に姿見が立ち、奈緒の姿を映していた。
奈緒は鏡を直接触らないようにダンボール箱を用意し、毛布で包んで廊下に出した。翌朝、粗大ゴミ収集の電話をかけようとした。そのとき健司が「鏡、戻ってるよ」と呼んだ。奈緒は廊下に出た。鏡は寝室の定位置に戻っていた。毛布もダンボールも廊下にそのままあるのに、鏡だけがそこにあった。奈緒は笑い出しそうになった。恐怖が飽和すると笑いになることを、そのとき初めて知った。
その日の午後、奈緒は出品者の情報を手がかりに発送元の住所を調べた。フリマアプリの取引画面には配送伝票の控えが残っており、発送元の市区町村名が見えた。神奈川県のある市の名前だった。奈緒はその市の名前と「姿見」「事故」「怪異」を組み合わせて検索した。何も出なかった。次に「姿見」「手放したい」だけで検索すると、二件の掲示板の書き込みがヒットした。どちらも数年前のもので、どちらも途中で書き込みが途絶えていた。最後の書き込みはどちらも同じ文章だった。「もう大丈夫です。解決しました」

七月の第一週、奈緒は鏡の前に椅子を置いて座った。夜の十一時。家族は眠っている。スマートフォンを手に持ち、鏡面に向けてカメラを起動した。録画ボタンを押した。ファインダーには自分の姿と、その背後にある寝室の薄闇が映っていた。奈緒は十分間、動かずに座り続けた。何も起きなかった。録画を止め、再生した。九分四十二秒のところで、奈緒の映像が一秒間だけ消えた。暗い寝室が、がらんどうとして映り、その奥の壁際に、人の輪郭に似た何かが立っていた。次のフレームでは奈緒が戻り、何もなかったように映り続けた。奈緒は再生を止め、その一秒間のことを健司には言わなかった。
翌朝、奈緒はフリマアプリに姿見を出品した。写真を三枚撮り、説明文を書いた。「アンティーク調の姿見。状態良好。一度も傷なし。早めに手放したいため格安で。」価格は三千円に設定した。出品から六時間後、購入申請が一件入った。奈緒は承認ボタンを押し、梱包の準備を始めた。鏡を毛布で包みながら、奈緒はふと思った。前の出品者も、同じ夜に同じ決断をしたのだろうか。そして今この瞬間も、自分が知らないどこかで誰かが同じ文章を書き、同じボタンを押しているのだろうか。
発送を終えた夜、家の中は確かに軽くなった。健司の表情が明るくなり、蓮は夕食後に声を上げて笑った。奈緒は風呂に入り、洗面台の小さな鏡で顔を確認した。くまは薄れ、頬に少し色が戻っていた。すべて終わった。奈緒はそう思いながら、洗面台の鏡に映る自分の顔を見た。瞬きをした。鏡の中の自分が、瞬きを返した。一拍、遅れて。